ともに生きて、ともに働いた日々。上浦澄子の話。

0
    ともに生きて、ともに働いた日々。上浦澄子の話。

    ◆出会いは「アルバイト」

    昭和40年代なかば。ぶどう饅頭といえば、その時、徳島の土産物として飛ぶように売れ、最盛期を迎えていました。
    繁忙期となる夏(お盆)と年末年始には、それぞれ100人の学生アルバイトを抱えるほど。
    上浦さんの日乃出本店との最初の「出会い」は、このアルバイト体験でした。

    当時は夏休みと冬休みに、たくさんの学生アルバイトさんを募集していました。100人くらい、いたと思います。ほとんどが女の子。ぶどう饅頭を成型したり串を刺す細かい作業が多かったですから、女性のほうが向いていたのかもしれません。
    ある日、友達と学校帰りに近くを通りかかったら、『やってみんか』とお店の方に声をかけられて。そうやって、お店の方が外に出られて、直接、学生さんたちに声をかけていました。そうして声をかけていただいて、初めてぶどう饅頭のアルバイトをすることになりました。

    そのころは旧社屋の二階に工場があり、ぶどう饅頭の成型(丸める)と、串刺しの作業を行っていました。
    ひと串に5粒。まず、左手に4粒のせて、右に、一粒だけ刺した串を持って、えいっと差し込むんです。そうやって、すべて人の手で串を刺していました。大変な数だったと思います。出来上がった饅頭の包装もしました。当時は、1階のお店の横に包装場があってそこで包装をしていました。お客様からも見えるように。ぶどう饅頭の最盛期でしたから、とにかく忙しかった印象があります。

    あともう一つは、「串づくり」の仕事。最初、串は竹製だったんです。最初に、ある程度の幅に竹を割っていってくれる。だいたい、均等の大きさになった竹串を、やすりにかけるようにして、細くして、サイズを合わせていくんです。これも、大変な作業ですね。今も良く、大奥さんが、串が落ちていると粗末にするなと叱りますが、やはりそのころの想いが今もあるのだと思います。

    ◆正社員に、穴吹の黄金時代

    働きぶりを見て頂けたのか、ありがたいことに声をかけていただいて、その後、正社員としてお世話になることになりました。昭和48年、10月の入社です。
    当時、現相談役が社長。奥さんが店を切り盛りしていました。会長になった初代の芳太郎さんも、当時はまだご健在。
    金庫番として事務所に座っているんですが、毎日、売り上げのお札、くしゃくしゃに皺になっているのを、その座っている座布団の下に敷く。そうして、ぴっちり真っすぐにされるんです。アイロンかけるみたいなもの。それをずっとされていました。

    芳太郎は万事に細かく、整理整頓に厳しかったと祖母から聞きます。そうした性格や、商売にかける想いが伝わるようなエピソードを、初めて知ることができました。

    穴吹駅も大変な賑わいがありました。ひっきりなしに列車がやってきて、大型バスが何台も旋回して。高松、池田、徳島方面、各地へのターミナル駅として便がよかったんです。
    宿もありましたし、賑わいや喧騒は、今とはくらべものになりません。
    ぶどう饅頭の駅での立ち売り、30年くらい前に辞めたと思いますが、そのころはまだまだ続いていました。女性の売り子さんが3人、饅頭の箱を肩から下げて。
    とにかくどこでも、ぶどう饅頭が売れに売れて。大変な時代でしたね。他になかったから、喜ばれたんだと思います。

    店も、いつもお客さんでいっぱい、立ち売りも盛況、駅のキオスクもすぐ在庫がなくなって、商品の奪い合い(笑)です。こっちが足りないんだ、こっちにくれって、できたての饅頭の箱を(身内でも)奪い合っていました。
    今の時代じゃ考えられませんが、お店の掃除をすると、お金のお札が丸まったのが出てきたり…売り場も押すな押すなの状態でしたから、そんなことも結構ありました。
    一番、多い時で一日300万。
    いまみたいに、自分用などでなく皆、どこかへもっていったり配ったりするために買っていきます。だからお客様も、一人10箱とか、紐でくくって下げて帰られていました。そんな光景も、今では懐かしいですね。

    穴吹が目に見えて過疎化してきたのは、やはりこの20年くらいでしょうか。たくさんの人で賑わっていた時は、お勤めの人口も、それなりにあったのかもしれないですけど…。
    日乃出本店は、鉄道とともに発展して。列車で人の行き来があって、駅にも活気があって生き生きしていたころ、それがぶどう饅頭の最盛期と重なるんですね。しだいに列車を利用する人がなくなると、自然人もいなくなって…人の流れが変わります。

    日乃出本店を、ぶどう饅頭を通して、時代と、穴吹という土地の移り変わりを見つめてきた上浦さん。同じ場所で見つめ続けてきたからこそ、その言葉にとても重みがあるように感じます。

    ◆接客という仕事にかかわって

    店頭に立って、お客様にご挨拶して、お話して…接客という仕事を気づけば長年、続けてきました。好きかどうかなんて、あまり考えたことありませんが、好きだから続けてこられたのかもしれません。もちろん、社員とだけでなく、たくさんのお客様との出会いがありました。
    長年、通い続けてらっしゃる方もいらっしゃいます。そういうご縁は本当にありがたいものだと思います。

    いつも香川から来て下さっていた、3組のご夫婦。仲良くそろって。それが、一組減り、二組減って、今では一組さんだけになりましたけど、年に一度は、必ず訪れてくださいます。そういうご縁は嬉しいですね。

    お客様がやってきては、上浦さんを見つけて親し気に声をかけ、時により長い事話し込んでいく。店頭では、よく見られる光景。てっきり知り合いの方なのだと思い、聞くと「いいえ、お客様なんです、昔からよく立ち寄ってくださって〜」と、いつもびっくりさせられました。人によってはご家庭やご家族の悩みまで、打ち明けて相談されたり。
    お菓子を買いたいから、じゃなく、「上浦さんに会いたいから」が理由で来店されるお客様が、きっとたくさんいらっしゃること。
    それはかけがえのない日乃出の財産であり、感謝すべきことだと思います。

    ◆バトンをつなぐ

    子どもは二人。男の子と女の子です。だから、お産で2回お休みさせてもらったし、家族にも病気がありましたので、その後も…何度もお休みさせてもらってご迷惑かけました。
    当たり前ですが、私が入社したころは、もっと年かさの女性の上司が多くて。皆さん、姉御肌というか、とにかく元気で、いろいろ言われもするけれど、相談にのってくれたりいろんな面倒をみてくれたり。すごく助けられた想い出があります。お店のスタッフは女性ばかりなので、長年みてきた中で、やはり結婚だったりご主人の転勤だったり、いろんな理由で短いスパンで辞められる方もいましたけど、脇さん、大塚さん(現在は香川在住)、そして私はみんな、20年以上。長い事勤めさせてもらいました。自分が若いころそうしてもらったように、若い人の話を聞いたり力にならないと、と思います。 自分の後には、松永さんという人が入ってくれて、長い事、勤めてくれて繋いでくれていて。有難いと思います。

    ◆ぶどう饅頭のこれからと、自分のこれから

    ぶどう饅頭は100年を超えるお菓子なので、やはり古くからのお客様、また二世代、三世代のお客様といらっしゃいます。
    本店へご来店されてぶどう饅頭を買って下さるお客様は、おしなべて年齢層が高めですが、それがこの夏、ずいぶんお客様の年齢層が「若返ったな」と感じました。30代、40代くらいの人がよく来てくれて買って下さったように思います。そうして新しい世代にも繋がっていくのだと思います。

    私の知っている最初は、ぶどうの絵の描かれた優しい包装紙。三代目のときにモダンなデザインになり、それからまた変わって。そして昨年、1世紀をこえて新たなパッケージになりました。歴史や思い入れのあるお菓子だから、変わった直後は、どうしても、お客様の反応も様々です。でも次第に、受け入れられ、その良さを見つけて、なじんでいくんですね。数年はかかると思います。

    学生のころからお世話になり、気づけば結婚、出産、さまざまなことを経て、今もこうしてお仕事させてもらっています。
    環境もお菓子の製造法もこれだけのことが色々変わって、ぶどう饅頭とともに、色んな変化を見てきました。
    自分自身、まだまだ、できない、できてないと思う事も多いです。それでもお客様とのかかわりを大切にしながら、これからも頑張りたいと思います。


    コメント
    コメントする








       

    日乃出本店ショップサイト
    Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
       1234
    567891011
    12131415161718
    19202122232425
    262728293031 
    << August 2018 >>

     

     

     

    その他

    mobile

    qrcode

    powered

    無料ブログ作成サービス JUGEM